
Readings
-よみもの-
第5回「半カレー」
還暦を過ぎて久しい今。
食べたい気は充ち満ちているのに、量を食べられなくなってきた。
販促企画の売り込みに汗を流していた三十代は、昼飯になにを食うか、どこで食べるかが大きな楽しみだった。
ごはんにケチャップが、これでもかとまとわりついたチキンライス。
刻みキャベツを下敷きにしたポテトコロッケ。
付け合わせはトマト味のマカロニだ。
醤油の利いたスープが、どんぶりから溢れ出しそうだったワンタン。
定食屋さんのなかには、和洋中なんでもごされの味自慢が何軒もあった。
そんな店を昼飯には渡り歩いた。
「オムライスにハムカツ」だの「チャーハンにレバ炒め、それにギョウザ」だのと二品、三品を注文する日々だった。
いまだ気持ちは、あれもこれも食いたいのに、身体が量を拒んでしまう。
半分ずつ、二品を食わせてもらえないものか……こんな切なる願いをかなえてくれる店が、東京にある。
『実用洋食』なる耳慣れぬ語が看板に描かれた、江東区白河の「七福」だ。
通い始めて20年を超えるが、味はまったく変わらない。美味さが保たれているのだ。
お気に入り一番は『半カレー』。
通常のカレーの半分の意だが、見た目には充分に一人前がありそうだ。
特筆したいのはカレーの色と味。
当節はチョコレート色が主流だが、七福は黄色に近い。
昔ながらのカレーパウダーと小麦粉の合作だからこそ出せる色と香りだろう。
ジャガイモなどの野菜と肉を炒め、スープストックを加えて煮る。
そこに、くだんのカレー粉を溶かし、味を調えて仕上がりだ。
形の残ったジャガイモの塊と、カレーとを一緒に食べれば、口一杯に至福感が広がる。
香りは強いが、味は穏やかだ。
その場で、絶妙な加減に煮込まれた野菜と肉が、カレー粉と旨味と香りを出し合った成果に違いない。
こども時分のご馳走はと問われれば、迷うことなくカレーと答える。
七福のカレーは、遠い昔、親が作ってくれた懐かしい味だ。
若い世代には、黄色いカレーは初めて口にする新鮮な味覚かもしれない。
半カレーなら、ごはんの量のほどがいい。
白いごはんの隅には、真っ赤な福神漬。
黄色いカレーには、強くて鮮やかな色の福神漬がお似合いだ。
七福のカレーは、卓上醤油の一滴垂らすことで美味さが際立ってくる気がする。
白いのれんの下がった普通の定食屋さんだが、七福は時代の先端を行っている。
ほとんどのメニューに「半○○」「半々△△」で応じてくれるからだ。
おいしい記憶は、食べ物がほどよき量であってこそ胸にも舌にも刻まれる。
INFORMATION
そのコンテストに寄せて、直木賞作家の山本一力さんが書き下ろしたエッセーをお届けします。
第5回「半カレー」
このエッセーを音声で聴く
このエッセーの掲載紙面をみる
他の作品を読む
これも好きかも
