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-よみもの-
髙田郁さん 特別随筆「命をつなぐ、心をつなぐ」
もう四十年ほど昔のことです。
ひとりの友との出会いがありました。当時の私は法曹界を目指し、法学部に通っていました。同じ学部の一学年下に、バオバブは在籍していました。大地にどっしりと根を下ろす巨木のようでありたい、と話していたのが「バオバブ」というあだ名の由来です。
おおらかで、お人好し、のんびり屋の彼女と、警戒心が強く、神経質で理屈っぽい私。性格は正反対でも「ひとの役に立てる生き方をしたい」という密やかな志と「食いしん坊」という共通点がありました。ともに一人暮らしだったため、時には互いを手料理でもてなし、夜中まで話し込んだりしていました。
「私、やっぱり医者になる」
ある時、突然、バオバブは言いました。かつて医学部受験で何年も浪人し、悩んだ末に進路を変更したバオバブでした。
諦めたはずじゃなかったの、という台詞を、私はぐっと呑み込みました。一度きりの人生です。後悔したくないからこその再挑戦の決断だったのでしょう。
大学を卒業してからも、私は法律家になる、という夢を手放せず、司法試験を受けては落ちる、を繰り返しました。バオバブもまた、医師になるべく努力を重ねていました。「いつまで夢を見ているのか」という後ろめたさ、己の不甲斐なさに身をよじりながらも、私にはバオバブが、バオバブには私が居ることで、互いにどれほど励まされたか知れません。
そののち、私は郷里に引き上げ、法曹界への道を断念して、まるで畑違いの漫画原作の仕事に就きます。バオバブは、苦労の末、志を貫いて医師になりました。
私の父が癌を発症し、入退院を繰り返していた時のこと。もともと病弱な父にとって、それは人生で十七回目の入院でした。もう食事を摂る気力もなく、点滴などの管が一本、また一本と増えるばかりです。父の命の灯が消えつつあるのを見守らねばならないのは、とても辛いことでした。足を骨折した母を車椅子に乗せて、大阪の総合病院まで様子を見に行くのですが、夜遅く帰ろうとした時に、
「あと少し、ここに居てくれへんか」
と、父が言いました。
大正生まれで、まかり間違ってもそんな弱々しい台詞を口にする男ではありませんでした。父を家に連れて帰りたい、と思いました。残された時を、せめて住み慣れた我が家で、と。まだ、介護保険制度もない時代、在宅で介護するひとは周囲には居ませんでした。まず相談したのが、バオバブです。
「あなたなら出来るよ、何でも協力するから」
そのひと言に背中を押され、腹を決めました。方々へ足を運び、色々と知恵を借ります。助けてくれるひとたちも現れて、無事に父を病院から自宅へと移すことが叶いました。
在宅介護に踏み切って、最初の受診日。さて、どうやって父を大阪の病院まで運ぼうか、と途方に暮れていた時、バオバブが新幹線で駆けつけてくれました。レンタルしたワゴン車を家の前に止め、バオバブは父の寝室に入ると、ベッド脇に腰を屈めました。
「お父さん、私に負ぶさってください」
大丈夫ですよ、慣れていますからね、とバオバブは優しく言い添えました。
恥ずかしいことですが、その時まで私には「父親をおんぶする」という発想がありませんでした。私に手本を示すように、バオバブは病み衰えた父を軽々と背中に負って、ゆっくりと慎重に歩き、ワゴン車に移したのです。
彼女に、返せないほどの恩を受けた、と思いました。
そうして迎えた、平成十一年のお正月。
髙田家のお正月は、重詰めのお節料理の他、元日と二日はお雑煮、三日は茶碗蒸しがお膳に並びます。お雑煮は、関西では珍しい「名取雑煮」と呼ばれる澄まし仕立てのもの。お節にもお雑煮にも飽きてきた頃に登場する茶碗蒸しは、家族全員の好物でもありました。
元日、父はダイニングの自分の席に座り、新年を寿ぎ、量は控えめでしたが、上機嫌でお雑煮を平らげました。三日目の茶碗蒸しは、ベッドで。結局、それが家族で過ごす最後のお正月になりました。
父が泉下の客となって十年ほど経った頃、既に漫画原作から時代小説の世界へと転身していた私は、「みをつくし料理帖」シリーズを手がけるようになっていました。バオバブは当時、静岡県内の病院の勤務医でした。
ある日、東京からの帰りに途中下車をして、彼女との久々の再会を果たします。
「一年中、お雑煮を食べさせてくれる店があるのよ」
そう言って案内された料理屋で、初めて、静岡のお雑煮を食しました。澄まし仕立てで、表面が見えないほど、どっさりと鰹節がかかっています。
「土地、土地でお雑煮って違うねぇ」
静岡の味に舌鼓を打ちながら、お雑煮談議に花を咲かせたあと、バオバブはふと、
「あの時、在宅介護に踏み切って良かったね。お父さん、自宅でお正月を過ごせて本当に良かった」
と、洩らしました。
ふいに、父を背負うバオバブの姿や、お雑煮を美味しそうに食べる父の姿が蘇って、目の奥がじんと熱くなりました。
長く友情を育んでいながら、彼女に我が家のお雑煮も茶碗蒸しも振る舞ったことがありませんでした。いつかご馳走させて、と彼女に伝えたのかどうか、それどころか彼女の台詞にどう応じたのか、記憶は朧です。
彼女はそののち、医療施設の少ない地域に、小さなクリニックを開業しました。
「夜、うっかり眠ってしまって携帯電話の着信に気づかないと困るから、音量を最大にして、常に傍に置いているの」
診察時間外でも、呼び出されたなら何時でも患者さんのもとに駆け付けるためだ、と話していました。温和な人柄と、医師としての誠実な姿勢に、地元の患者さんたちから厚い信頼を寄せられていた、と聞きます。
けれど、無理がたたったのでしょう、開院から僅か三年足らずで、彼女自身が倒れ、あっと言う間に旅立ってしまいました。昨年一月のことです。
映画『みをつくし料理帖』に登場する、お雑煮と茶碗蒸し。試写室でそれらの料理を目にした時、脳裡に浮かんだのは、父とバオバブのことでした。
作品を貫くテーマ「食は人の天なり」の通り、食は命を繋ぐ最も大切なものです。そしてまた、食はひととひととの心を結びつけるものでもあります。私にとって、先の二つの料理は、まさに亡きひとと私の心を繋ぐものでした。
私に限ったことではなく、特定の料理に思い出を持つひとは多いでしょう。切なさ、哀しみ、喜び、幸せ――料理を巡る思い出は、記憶するひとが居なくなれば、この世から消え去ってしまう。けれど、そうした思い出は、実は密かに料理に刻まれて、明日に伝えられていく。過去から未来へ、会うことのない誰かと誰かの心を繋いで、味わいを深めてくれるように、私には思われてなりません。
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承諾番号:24-3146
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