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-よみもの-

髙田郁さん みをつくし料理帖「富士日和」

 御膳奉行、小野寺数馬はその日、目黒行人坂上の茶屋でひとり寛いでいた。褪せた藍縞木綿の袷に捩れた朽葉色の帯という形が功を奏し、誰からも気を払われることはない。
 気儘な街歩きの末、正面に富士を眺めながら飲む一碗の茶の美味いこと。
「美味いな」
 思わず声が洩れた。
 向かいの床几で箸を使っていた男が、その声に顔を上げる。年の頃は三十前後か、意思の強そうな濃い眉の下で、穏やかな双眸が親しげに緩んだ。
「富士を眺めてのお茶は格別に美味しゅうございますね」
 男は控えめな口調で言うと、丁寧に会釈してまた箸を動かし始めた。
手持ちの弁当をここで食しているのだ。
 白木の割籠に詰められているのは、江戸では珍しい俵型の握り飯に梅干、仕切りを隔てて、黄色く乾いた何か。
何気なく他人の弁当の中身を眺めていた数馬だが、興味を覚えて僅かに身を乗り出した。
「それは湯葉ではないのか?」
 数馬の不躾な問いかけに別段動じる様子もなく、男は箸を止めて、はい、と頷いた。
「乾物の湯葉を戻して、調理してまた乾かして、という手間をかけたものですが、これがまた何とも乙な味なのでございまして」
 失礼でなければ、と差し出された割籠から、数馬は遠慮なく湯葉を摘まみ上げた。
 しげしげと眺めれば、三つ折りの湯葉の中には何かが包み込まれている。訝りながら前歯でひと噛みすると、さくっと良い音がした。
 さくさくと軽やかに噛み進めば、甘い味、辛い味、それに爽やかな香りで口中が満たされていく。ううむ、と数馬は思わず唸った。
「中身は、この時季ならではの穂じその実だ。それに湯葉の内側に醤油と味醂を合わせたものが塗り付けてあるのだろう。味醂は、おそらく流山の白味醂だ」
 途端、相手は大きく瞳を見開いた。
「驚きました、よもや流山の白味醂をご存じだとは……」
男は箸を置いて居住まいを正す。
「私は相模屋店主、紋次郎と申す者にございます。仰る通り、この料理は手前ども相模屋の白味醂を用いたものに間違いございません」
 昨日のうちに江戸市中の主だった料理屋を回り、これより西へ向かう旅の途中とのこと。
「白味醂を広めるためにあちこち訪ねて回るのですが、時には儘ならぬこともございます。そんな私を励ます意味もあってか、懇意にして頂いている料理屋の主がこれを持たせてくれまして。ありがたいことです」
 紋次郎は言って、割籠に手を合わせた。
 役務柄、数馬は調味料にも詳しい。甘味と言えば砂糖だが、砂糖は存外厄介で、時として食材の持ち味を殺してしまう。その点、味醂ならば食材に寄り添い、奥行きのある甘味をつけることが出来る。ただ、惜しむらくは未だにこの味醂の力を知らず、ただ暑気払いの飲み物として扱う者も多いのだ。
 数馬は紋次郎の胸中を慮った。平素なら決してそうはしないのだが、先の湯葉の料理が彼の気持ちを大らかにしていた。
「煮切った味醂ほど面白いものはないぞ。古漬けの茄子や胡瓜を細かく刻み、煮切り味醂で洗えば、格別の味わいになる」
 えっ、と紋次郎は床几から腰を浮かせた。
「漬物を味醂で洗うのですか」
 左様、と数馬は深く頷いてみせる。
「あるいはまた、味噌と合わせて練り上げ、今の時季ならば、そうさな、穂じそに塗り付けて陽に三日も干すが良い。軸ごと食えるから、酒の肴に丁度良いのだ」
 試してみよ、と鷹揚に告げる数馬に、紋次郎は感じ入った眼差しを向けた。
「お武家さまは、ただのおかたではない……。実は、先の料理屋の店主が持たせてくれたものが、もう一品ございまして」
 紋次郎は傍らに置いていた風呂敷包みに手を伸ばし、大事そうに開いた。現れたのは塗りの重箱で、その蓋が外されると、数馬は思わず息を呑んだ。
「こ、これは……」
 きらきらと琥珀色に輝く透き通ったものが、切り分けて収められている。琥珀の中に閉じ込められているのは卵黄と卵白だろうか。黄と白のそれらは、風を受けて舞う天女の羽衣もかくや、とばかりの麗しさだった。
 勧められるまま、一切れを口に運ぶ。寒天のぷりぷりした歯ごたえ、出汁に玉子の味、何より味醂の気高い甘みが舌を魅了して、数馬は恍惚のあまり双眸を閉じた。
 更に一切れを差し出して、紋次郎は告げる。
「三十年ほど昔、大坂で好評を博した『琥珀寒』という料理だそうです。弁当を持たせてくれた店の、大坂生まれの料理人が苦心して再現したものと聞いております」
 刹那、数馬の脳裡に下がり眉の女料理人の顔が浮かんだ。
「その店というのは何処の、何という店か」
「俎橋の傍の、つる家という料理屋でございます」
 紋次郎の返答を聞いて、数馬は僅かに震える指で琥珀寒をもう一切れ、口に運んだ。
──この命のある限り、ひとりの料理人として存分に料理の道を全うしたいのです
 雪の中、懸命に許しを請うていた娘の姿が、その声が蘇る。
 そうか、お前はここまで来たのだな。
 口の中のものを大切に味わう数馬のその目尻にぎゅっと皺が寄る。そうか、そうか、と胸の内で繰り返し、数馬は口中の幸福を飲み下した。
 行人坂の頂上に立てば、西の空に、白く薄化粧を施した富士の山がくっきりと浮かんでいる。手を伸ばせば届きそうな富士に、数馬と紋次郎は暫し見入った。
「美しゅうございますなあ」
「うむ、まさに富士日和だ」
 最後にそんな言葉を交わして、二人は別れた。先に行人坂を下って行く相模屋紋次郎の後ろ姿を、数馬は暫く、富士の山とともに愛でるのだった。(了)

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承諾番号:24-3146
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朝日新聞掲載紙面 みをつくし料理帖「富士日和」はこちらから

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