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-よみもの-

髙田郁さん みをつくし料理帖「秋麗の客」

 ――おや、良い男だこと
そのお客がつる家の暖簾を潜った時から、りうは、妙に心を引かれた。
 年の頃、三十前後か。濃い眉の下に、聡明そうな双眸。穏やかな表情ながら、疲れが色濃く滲む。身に纏う上総木綿は上物らしいが、幾分くたびれている。足もとは草鞋履き。長旅の途中だろう、とりうは見当をつける。
 長月二十二日。昼餉時を大分と過ぎて座敷には他のお客の姿はなかった。
「巷で噂の『ありえねぇ』という料理をお願いします」
 りうの案内で入れ込み座敷に通されるや否や、男は慌ただしく注文した。
 おやまぁ、とりうは申し訳なさそうに、歯のない口をきゅっと窄めてみせる。
「あれは早い話、蛸と胡瓜の酢の物なんですよ。もう胡瓜の時季は過ぎちまいましたから」
 そうですか、と男は落胆の色を隠せない。
「流山の白味醂を使った料理、と聞いていたので、是非とも食してみたかったのですが」
「まあ、流山の白味醂をご存じなんですか」
 りうは、ぱん、と両の手を打ち鳴らす。
「あれは素晴らしい味醂ですよ。味が良いのは勿論のこと、料理を色味よく、美しく仕上げることが出来る……とまぁ、これはうちの料理人の受け売りなんですけれどね」
 白味醂を使った料理が良いなら、とりうは上機嫌でこう提案した。
「つる家の今日の昼餉のお勧めが、鰯の味醂干しなので、それをお持ちしましょうか」
 鰯の味醂干し、と男は嬉しそうに繰り返す。
「飯や汁は要りません。替わりにその味醂干しというものを二人前お願いします」
 男の注文に、りうは目を丸くした。よほど白味醂がお好きなんですねぇ、と言いながら、調理場へ注文を通しに行く。
 ほどなく運ばれてきた膳を見て、男は首を傾げた。膳の上には器が二つ。開いた鰯が載っている平皿と、もうひとつは豆小鉢。
「豆小鉢の中身は、うちの料理人の試作の品で、特別にお味を見て頂こうと思いましてね」
 まずは味醂干しからどうぞ、と勧められて、男は箸で鰯を摘み上げ、つぶさに観察する。照りのある鰯の身に白胡麻の色味が美しく、何とも美味しそうだ。味醂の甘く芳しい香りと鰯独特の匂いとが決して争わず、むしろ食欲に訴えてくる。男は大きな口で、がぶりとひと口。両の目を閉じて、口の中のものをじっくりと味わう。よくよく噛んで飲み下すと、ほう、と大きく息を吐いた。
「驚きました。初めて食べる味です。塩水に漬けて干した干物とはまるで違いますね。甘い鰯が、これほどまでに旨いとは」
 その言葉に、りうの低い鼻がぐんと伸びる。
「食材の嫌な臭いを包み込む、上品な甘みを付け味わいを深める――味醂にはそんな不思議な力があります。煮崩れを防ぎ、良い焼き色を付け、照りを出すのも得意技ですよ。お砂糖とも違う、丸い甘さは味醂ならではです」
「その通りです」
 男は身を乗り出して、深く頷いてみせる。
「焼酎で割って呑むだけでは勿体ない。味醂は料理に使ってこそ、本領を発揮するのです」
「お客さん、よく御存じだこと。それなら是非、こちらも召し上がれ。この匙を使って、漬け汁ごと食べると美味しいですよ」
 差し出された匙を手に、男は豆小鉢の中をじっと覗いた。松の実と、砕いた胡桃。黒い実は何だろう、と匙で掬い上げる。
 甲州名物の干し葡萄、とりうから教わって、男は恐る恐る匙で掬ったものを口に入れた。
「こ、これは」
 瞠目した男を見て、りうはにんまりと笑う。
「甘くて美味しくて驚くでしょ? あたしゃ、密かに『おやつ』と呼んでるんですよ。漬け汁の正体は煮切った味醂。それだけなんです」
 加熱しない料理で味醂をそのまま使うと、酒の味が出しゃばって美味しくない。煮切ることで尖りが取れて円やかな味わいになる。
「料理書には味醂を使った料理は殆ど登場しませんが、うちの料理人のように味醂の力を知りさえすれば、もっと広まると思いますよ」
 話に聞き入る男の瞳に、滲むものがあった。
 食事を終え、りうに送られて表へ出ると、男は、眩しげに天を見上げた。高い空に鰯雲が泳ぎ、柔らかな秋の陽射しが心地よい。
「商いで諸国を廻り、少々疲れていたのですが、先ほどの料理と、あなたの味醂の話でまた歩き出す気力が生まれました」
 秋麗の客は疲れの取れた表情で言い、少し躊躇ったあと、こう続けた。
「実は私はつる家さんに大変な恩を受けた身。まだご恩返しは出来ておりませんが、いずれ天下を取ったなら、と夢を抱いております。紋次郎がそう言っていた、とお伝えください」
 丁寧な辞儀を残して、男はつる家を後にする。首を捻り、紋次郎、紋次郎、と繰り返していたりうは、もしや、と顔色を変えた。
「白味醂の生みの親の、相模屋さん……」
 りうの視線の先、相模屋紋次郎は蒼天を背負い、軽やかな足取りで俎橋を渡っていく。(了)

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承諾番号:24-3146
※朝日新聞社に無断で転載することを禁じます

朝日新聞掲載紙面 みをつくし料理帖「秋麗の客」はこちらから

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