江戸時代のしょうゆ輸出について

- 展示期間
- (2000年4月~2000年9月展示)
今年は、わが国とオランダが交流をはじめて400周年にあたります。
1600(慶長5)年オランダ船「リーフデ号」が豊後国(現・大分県)に漂着し、日本とオランダの交流がスタートしました。そして、1609(慶長14)年に2隻のオランダ貿易船が来航し、家康から貿易の許可を得て平戸に商館を開設しました。
それから30年後、日本は鎖国に入り、外国との貿易は長崎が唯一の窓口となり、「オランダ東インド会社」の持ち船(「蘭船」)と中国船(「清船」)によって貿易がおこなわれました。
この時代の蘭船による貿易の詳細は、オランダ・ハーグにある国立中央文書館に残されている「オランダ東インド会社」の『長崎商館日記』『長崎商館仕訳帳』および同会社総督・東インド評議会が母国の「17人重役会」あてに年々書き送った『報告書』によって知ることができます。
近年になって、山脇悌二郎先生により、これらの記録の解読・研究がすすめられ、その結果、日本との貿易の全貌が明らかになりました。また、先生の研究の一部に『江戸時代、醤油の海外輸出』と題する論文(『野田市史研究第3号』所載)があり、これによって鎖国時代のしょうゆの海外輸出の実態が解明されました。
一方、当社では、1997(平成9)年10月オランダで「キッコーマンしょうゆ」の生産を開始しました。当社のヨーロッパでの最初のしょうゆ工場が、オランダに建設されたことと、日本の食文化の象徴ともいえる「しょうゆ」が、初めてオランダ人の手によってヨーロッパにもたらされたことは、偶然以上のものを感じさせます。
今回、山脇先生のご好意により、先生の貴重な研究の概要をまとめることができました。江戸時代のしょうゆ輸出について、少しでもご理解いただければ幸いです。
『長崎商館仕訳帳』などにみる江戸時代の海外輸出
江戸時代の日本は、日本人の海外渡航を禁じ、また海外から日本へ来ることも禁止した鎖国の時代でした。しかし、唯一の例外としてオランダと中国(清)の2カ国のみが、長崎で貿易を許されていました。
長崎の「出島」は、1636(寛永13)年幕府が、長崎の町の有力な商人25人に資金を出させて「出島」を築かせ、ポルトガル人を収容させたのが最初です。
1639(寛永16)年第5次鎖国令(ポルトガル船の来航禁止)により、ポルトガル人が追放され「出島」は無人となります。
1641(寛永18)年、オランダの商館は平戸から「出島」に移され、以後218年にわたり、「出島」は西欧の学術・文化・経済などの窓口として重要な位置を占めました。
さて、江戸時代、日本のしょうゆが遠くヨーロッパまで運ばれたことは、従来から知られていましたが、ディドロの『百科全書』(フランス、1765年刊行)にも登場する「日本のしょうゆ」は、どのくらいの量、どんな道を通ってヨーロッパまで運ばれたのか、日本のどの地域のしょうゆが輸出されたのかなど、詳しいことについては明らかではありませんでした。
しかし、近年の研究により、その実態が解明されました。今回のパネル企画「江戸時代のしょうゆの海外輸出」では、長崎の「出島」に置かれた「オランダ東インド会社長崎商館」が綴った『長崎商館仕訳帳』などの資料をもとに、当時の貿易、とくにしょうゆの輸出について考察してみました。
「本方荷物」と「脇荷物」
出島から輸出される品物には、「本方荷物」と「脇荷物」の2種類がありました。「本方荷物」というのは、「オランダ東インド会社」自身がおこなう取り引きの荷物のことで「こんぱにや荷物」とも呼ばれ、いわば公式な貿易荷物のことです。『長崎商館仕訳帳』に記録されているのは、この「本方荷物」です。
これに対して「脇荷物」は、「役者、漕者荷物」ともいい商館長を始めとする商館職員、交替要員、オランダ船乗組員などの個人用貿易品を指します。
そして「脇荷物」の取り引きを「脇荷取引」と呼び、1685(貞享2)年幕府はその総取引高の上限を銀額400貫と定めましたが、1737(元文2)年からは、上限額を廃止しました。ただし、「脇荷取引」は1685年に始まったわけではなく、長崎貿易の初期からおこなわれていました。
しょうゆの輸出も「本方荷物」と「脇荷物」の2本立でおこなわれていました。そして「本方荷物」による輸出は、記録でみる限り、1647(正保4)年から1792(寛政4)年までの145年間続けられますが、「脇荷物」による輸出は、日本が1854(安政元)年に開国するまで続けられました。
しょうゆ輸出の経路
「本方荷物」によるしょうゆ輸出は、1647(正保4)年に始まります。輸出経路は、年代によって若干異なりますが、上図に示した通りです。
1647(正保4)年から1720(享保5)年の間は、長崎商館からアジア各地の商館に直接送っていましたが、1721(享保6)年から1792(寛政4)年まではバタビア本店のみに送られ、バタビア本店から各地の商館に移送されました。
オランダ本国への輸出は、1737(元文2)年から1760(宝暦10)年まで24年間続きますが、長崎→バタビア→オランダという経路で、しょうゆが送られました。
アジア各地へのしょうゆの輸出
長崎商館から輸出された品々は、細かく『長崎商館仕訳帳』に記録されています。記録によりますと、1647(正保9)年から1720(享保5)年まで、「本方荷物」としてしょうゆが長崎商館から、直接、アジア各地に輸出された際の仕向地別、最初の輸出量などは、表1のとおりです。
また、図は記録にあるアジア各地の商館のあった場所です。図と表を照らしてみると分かるように、しょうゆの輸出先は、東は現在のモルッカ群島から、南はジャカルタ、スリランカ、西はインド西海岸まで広い地域に及んでいます。これらの地でのしょうゆの主な需要者は、華僑の人々でした。
バタビア本店向けの輸出
1737(元文2)年から1792(寛政4)年までの56年間の、長崎商館からバタビア本店向けのしょうゆの輸出量は、表2のとおりです。
このうち、1737年から1760(宝暦10)年までの23年間は、バタビア本店からオランダ本国にむけて、しょうゆの一部が移送されています。また、残りの一部はバタビア本店から、アジア各地のオランダ商館に向けて移送されました。
オランダ本国への輸出
『長崎商館仕訳帳』によりますと、「本方荷物」としてしょうゆがオランダ本国に輸出されたのは、1737(元文2)年から1760(宝暦10)年までの24年間です。
この24年間に、バタビア本店には約46kLのしょうゆが送られ、そのうちの約3分の1の15.6kLがオランダに向けて移送されました。オランダに送られたしょうゆの年間平均量(1742年、43年を除く)は707Lで、ほかに「脇荷物」として、かなりの量のしょうゆが輸出されていたと思われます。
コンプラ醤油瓶(1)
『長崎商館仕訳帳』には、しょうゆ輸出量を「樽」数で記録しています。
この「樽」には「大樽」と「小樽」があり、記録を細かく分析していくと「大樽=1斗6升1合余」(約29.104L)、「小樽」は大樽のほぼ2分の1であったことが判りました。しかし、実際に輸出する際には、「樽」で送られる他に、別の容器に詰め替えて輸出されたものもあります。この別の容器が、いわゆる「コンプラ瓶」と呼ばれるものです。さらにこの「コンプラ瓶」が登場する以前は、「ケルデル瓶」と呼ばれる四角いガラス製の瓶が用いられていましたが、この瓶が不足し、それを補うために長崎に近い伊万里や、波佐見の焼き物による瓶が使われました。
そして、やがて現在よく目にする徳利型の焼き物に替わりました。徳利型の「コンプラ瓶」は、正確には「コンプラ醤油瓶」です。その理由は同型、同目的に使用した「酒用の瓶」もあるからです。(しかし、ここでは単に「コンプラ瓶」と呼ぶことにします)
山脇先生の研究によりますと、「コンプラ瓶」の容量は「2合9勺余」(約522ml)であり、1790(寛政2)年初めて輸出に用い550本使用された、ということです。
この550本は、特に「浄化醤油」として記録されています。
長崎商館は、1793(寛政5)年から「本方荷物」としてのしょうゆの輸出を中止します。そして、1799(寛政11)年、「オランダ東インド会社」は解散しますが、その後、長崎商館は、バタビアの「東インド政庁」の管理下に入り、しょうゆの輸出を再開しますが、この際は瓶詰となり、1790年に使用したものを模倣、踏襲したと考えらています。


コンプラ醤油瓶(2)
熊本県・天草の元公証役場公証人で郷土史家の故市川正雄氏の研究によりますと、「コンプラ瓶」にも前期と後期がある、ということです。 「コンプラ瓶」は、いずれも徳利型をしており、肩の部分に「JAPANSCHZOYA」ないしは「JAPANSCHSOYA」と書かれています。前期のものは、この文字が手書きで、地肌がやや灰色を帯びた白磁風の瓶です。今回、展示してある3本の「コンプラ瓶」のうち2本が、この前期にあたるものです。また、前期のうち1本は地肌の色が黄土色で、白磁風のものより、さらに古いものといわれています。
後期の「コンプラ瓶」は、捺染方法で「JAPANSCHZOYA」と書かれ、その下に「CPD」の文字が書かれています。「CPD」とは「Comprador(コンプラドール)」のC、P、Dを組み合わせたモノグラムであるといわれています。
そして「CPD」の反対側に円型または楕円型の商標のようなものが描かれています。この商標らしいものにも2種類あり、すべてアルファベットだけで書かれているものと一部に「長崎金富良商社」または「長崎金富良商店」と漢字で書かれているものがあります。山脇先生の研究によりますと「商社(店)」という言葉は、明治になってから使われるようになったということです。
したがって、この漢字の入った商標(?)のある「コンプラ瓶」は、後期のものでも明治期のものであることが判ります。
また、容量についてはかなりまちまちで、例えば野田市郷土博物館に展示されている瓶は575mlのものもあり、460mlのものもあるそうです(田中則雄著『コンプラ醤油と東葛地方の醤油』)。また、山脇先生によると、輸出されたしょうゆの容量と瓶の数から計算すると、1本の容量は約522mlである、ということです。
一方、同型、同目的で使用された「酒用の瓶」には、やはり肩の部分に「JAPANSCHZAKY」という文字が書かれています。

「脇荷物」による醤油の輸出
長崎商館職員や蘭船の乗組員たちによる個人取引の荷物は「脇荷物」または「役者、漕者荷物」と呼ばれていました。「脇荷物」によってもしょうゆは輸出されていましたが『長崎商館仕訳帳』には記録されておらず、その正確な量は判っていません。
一方『唐蛮貨物帳』には、1711(正徳元)年の蘭船4艘による「本方荷物」と「脇荷物」の合計記録が残っています。
それによると、品目が同じものは「本方荷物」と「脇荷物」が合計されており、さらにしょうゆは味噌と一緒にして「樽物」として扱われ、その合計数が記録されています。したがって『長崎商館仕訳帳』と引き合わせながら「本方荷物」と「脇荷物」を区別する必要があります。
このようにして計算すると、1711年の「本方荷物」はしょうゆ61樽(大樽56樽、小樽6樽)で、味噌は40樽、一方「脇荷物」は、しょうゆと味噌を合わせて867樽でした。同様に、1712(正徳2)年には、「脇荷物」によるしょうゆと味噌を合わせた輸出量は999樽でした。しかし、この「脇荷物」のうちしょうゆが何樽であったかは、残念ながら正確には判りません。
山脇先生は「江戸時代を通して、味噌の輸出がしょうゆを上回る例は一例も見当たらないことから、少なくとも、脇荷の樽物の2分の1以上がしょうゆであったと考えられる」という意味のことを述べています。このように見たとき、『長崎商館仕訳帳』と『唐蛮貨物帳』を引き合わせた1709年、1711年、1712年の3年の「本方荷物」と「脇荷物」のしょうゆの輸出量は、表4のようになります。
中国船による輸出
江戸時代、オランダとともに中国(清)船も交易のために来崎しましたが、中国船によるしょうゆ輸出の記録は少なく、その全貌は明らかではありません。
中国船によるしょうゆ輸出の記録は、『唐蛮貨物帳』『バタビア城日誌』『長崎商館日記』などによって知ることができます。資料による初見は、1669(寛文9)年です。『バタビア城日誌』には、この年の3月31日の項に、日本からバタビアに来た中国船が20樽積んできたことが記しています。中国船の場合、長崎と中国国内の港を往復する船と、例えば、バタビア→長崎→バタビアのように運航する船がありました。
そのため、中国船には、出発港や立ち寄り先により船名(便名と考えてもよい)が付けられていました。
1711(正徳元)年から1713(正徳3)年までの中国船によるしょうゆ輸出の記録は、表5のとおりです。また、1804(文化元)年から1829(文政12)年までの26年間の『長崎商館日記』による輸出記録をまとめると表6のようになります。しかし、中国船の場合、樽の大小や容量が判明していないため、表中では「樽数」のみで表しています。
輸出しょうゆの生産地
1687(貞享4)年の『長崎商館仕訳帳』に、「〔セイロン本社商館〕用として〔京の醤油〕20樽を詰め、1樽30匁云々」という記録があります。京都の酒屋が醸造したしょうゆと考えられます。当時、京坂地方では堺のしょうゆが名産として知られ、京都でも同様の質の高いしょうゆが造られるようになっていました。
清酒の輸出量は、毎年しょうゆよりも多く、「京の酒」という記録が1670(寛文7)年から『長崎商館仕訳帳』に見られ、『バタビア城日誌』では、これを「皇帝の酒」として特別扱いをしています。同様にバタビアでは、「京の醤油」も「皇帝の醤油」として高級品扱いとしていました。さしずめ、現代風にいうならば「皇室御用醤油」といったところでしょう。「京の醤油」という記録は、1692(元禄5)年まで『同仕訳帳』に見られます。
一方、1764(明和元)年から1780(安永9)年の間の、主に長崎貿易実務について書き留めた『明安調方記』には、堺のしょうゆについて記録し、それ以外のしょうゆについては触れていません。記録によると、堺のしょうゆ屋細屋庄兵衛ら4軒が醸造元です。
堺のしょうゆは、「堺糸荷回船」(「堺船」)が堺から長崎に下る空船を利用して送られました。堺船は、慶長年代いらい、長崎から輸入生糸を運ぶ特権が与えられていました。
種々の資料を分析すると、オランダとのしょうゆ輸出は、堺産のしょうゆが中心となり、高級品として京都産のしょうゆも使われたと考えられます。
また中国貿易では、『唐蛮貨物帳』に値段の非常に安いものが散見さることから、堺のしょうゆの他に、九州の地廻りしょうゆも用いられたと思われます。
いずれにしても、江戸時代、輸出に用いられたしょうゆは、関東産の登場する幕はなかったことは確かなようです。

コンプラ醤油瓶の輸送
当時、しょうゆの商品価値を下げずに、赤道直下のバタビアを経て喜望峰を回り、遠くオランダまで運ぶということは、大変な困難があったと思われます。いまでこそ冷蔵設備や真空パックなどの技術が発達していますが、そうした設備や技術の無かった時代、オランダ人たちは、どのような工夫をしていたのでしょう。
1775(安永4)年から1年あまり長崎商館の医務職員として勤務したスウェーデンの医学者・植物学者ツンベリーの旅行記『ツンベルク日本紀行』には、次のように記されています。
「(日本人は)非常に上質の醤油を作る。これはシナ(中国)の醤油に比して遥かに上質である。多量の醤油がバタビア、印度、及び欧羅巴に運ばれる。(中略)和蘭人は醤油に暑気の影響をうけしめず、又その醗酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰とし、その栓に瀝青を塗る」
(山田珠樹訳『ツンベルク日本紀行』、カッコ内およびルビは引用者)
つまり、しょうゆをまず煮沸し、それを瓶(「ケルデル瓶」または「コンプラ瓶」)に詰め、栓をして、そこに瀝青(コールタール)を塗ることにより、しょうゆの劣化を防いだということです。
長崎→バタビア→オランダというコースで輸出されたしょうゆの記録は、樽数で記録されていますが、長崎商館から送る際に、瓶に詰め替えて送りだしたことになります。
1790(寛政2)年に初めて550本の「コンプラ瓶」を使っていますが、この瓶に詰めたしょうゆを「浄化醤油」と記録しています。この「浄化醤油」というのは、煮沸したしょうゆを瓶詰にした後、瓶の栓に瀝青を塗ったもの考えられます。
コンプラ株仲間(1)
長崎出島のオランダ商館員や来航船の乗組員のために、日用品、輸出品、および貨物梱包品などいわゆる諸色を、日本商人との間に立って取次ぎ、仲立ちをした特権商人達を「コンプラ株仲間」または「コンプラ商人」と呼んでいます。
「コンプラ」とは、ポルトガル語の「コンプラドール(Comprador)」の略称で日本語では「買い手」という意味です。「コンプラ株仲間」は正式には「出島諸色売込株仲間」といい、1666年(寛文6年)長崎奉行河野通定の認可によって成立した16株、16人の株仲間です(時代によって16株、17人のときがあります)。長崎奉行によってその営業を保障された特権グループでした。
従来から「コンプラ株仲間」は、オランダ人に物資を「売り込む商人」と解釈されていましたが、そうではなく、オランダ人のために諸品の「買い手」となり、それを調達してオランダ人に売り、利ざやを得ていた商人達のことです。「諸色売込」というのは、このような意味があります。
長崎には、「コンプラ株仲間」のほかに、脇荷取引に専従した「内通詞」と呼ばれる通詞(通訳)達の株仲間がありました。この株仲間は、脇荷取引の通訳、仲立ち、取次ぎをして口銭や世話料を得ていました。1670年(寛文10年)長崎奉行から認許されました。1701年(元禄14年)に書かれた『長崎諸役人付』という本は、長崎地役人総覧というべきもので、この本によりますと、「コンプラ株仲間16人」を「和蘭内通詞90人」のうちに入れて数えています。
つまり、「コンプラ株仲間」と「内通詞仲間」は身分が同類であることを意味しています。
コンプラ株仲間(2)
「コンプラ株仲間」として認許されたのは、1666年(寛文6年)長崎奉行河野通定によることは前述の通りですが、これをもっと詳しく見てみましょう。(故 市川 正雄『コンプラ瓶あれこれ』より)
1642(寛永18)年、平戸のオランダ商館が長崎の出島に移されたとき、平戸でオランダ人に物資の売り込みをしていた商人のうち、「小柳兵左衛門」「鮫屋文左衛門」の2名がオランダ人に同行し、長崎で商売することが許されました。その後、商売が忙しくなり、1653(承応2)年になって平戸から「平山利兵衛ほか3名」を呼び、仲間は6人になりました。ついで1666(寛文6)年、「村田彦左衛門ほか9名」が加わって16名となりました。以降、株仲間は16株で固定され、増えることも減ることもありませんした。一時、1株を2人で持ちあって17人となった時期もありますが、通常は16人でした。
株数は16株と限定されていましたが、株の売買は自由で、相続人や縁者に継承されました。1858(安政5)年に締結された蘭、英、仏、露との通商条約の発効以降は、その特権を失って営業を続けていく目的もなくなりました。そこで株仲間では、1868(慶応4)年6月からパンの製造・販売をするなど、新しい仕事を始めましたが次第に営業不振となり、1874(明治7)年になって「株」や共有財産である「仲宿」(コンプラ仲間の営業所)などを処分して「コンプラ株仲間」としての営業は停止しました。
「コンプラ株仲間」は営業のほか、1844(弘化元)年、1850(嘉永3)年、1855(安政2)年には、オランダ人の江戸参府に随行を命じられ、道中でオランダ人達が禁制品を買い上げないように監視したり、商売の取次ぎをするなどの役目を勤めることもありました。
- 1山脇悌二郎 著「野田市史研究第3号 江戸時代、醤油の海外輸出」(野田市史編さん委員会)
- 2山脇悌二郎 著「長崎のオランダ商館」(中央公論社)
- 3山脇悌二郎 著「長崎の唐人貿易」(吉川弘文館)
- 4山脇悌二郎 著「近世日中貿易史の研究」(吉川弘文館)
- 5科野孝蔵著「オランダ東インド会社の歴史」(同文館)
- 6長崎史談会 入江一郎 その他「長崎事典「産業社会編」」(長崎文献社)
- 7中村質 著「近世長崎貿易史の研究」(吉川弘文館)
- 8田中則雄 著「醤油から世界を見る」(崙書房出版)
- 9八百哲介 著「近世オランダ貿易と鎖国」(吉川弘文館)
- 10オスカー・ナホッド 著 富永牧太郎 訳「17世紀日蘭交渉史」(養徳社)
- 11村上直次郎 訳「長崎オランダ商館の日記(全3巻)」(岩波書館)
- 12村上直次郎 訳「バタヴィア城日誌(全3巻)」(平凡社)
- 13カール・ピーター・ツンベルク 著 山田珠樹 訳「ツンベルク日本紀行」(奥川書房)
- 14長崎市「長崎市史」(清文堂出版)
- 15長崎県「長崎県史」(吉川弘文館)
- 16外山幹夫 著「長崎奉行」(中央公論社)
- 17角川榮 著「堺-海の都市文明」(PHP研究所)
- 18山本博文 著「長崎聞役日記」(筑摩書房)

















