江戸時代の日本は、日本人の海外渡航を禁じ、また海外から日本へ来ることも禁止した鎖国の時代でした。しかし、唯一の例外としてオランダと中国(清)の2か国のみが、長崎で貿易を許されていました。
長崎の「出島」は、1636年(寛永13年)幕府が、長崎の町の有力な商人25人に資金を出させて「出島」を築かせ、ポルトガル人を収容させたのが最初です。
1639年(寛永16年)第5次鎖国令(ポルトガル船の来航禁止)により、ポルトガル人が追放され「出島」は無人となります。
1641年(寛永18年)、オランダの商館は平戸から「出島」に移され、以後218年にわたり、「出島」は西欧の学術・文化・経済などの窓口として重要な位置を占めました。
さて、江戸時代、日本のしょうゆが遠くヨーロッパまで運ばれたことは、従来から知られていましたが、ディドロの『百科全書』(フランス、1765年刊行)にも登場する「日本のしょうゆ」は、どのくらいの量、どんな道を通ってヨーロッパまで運ばれたのか、日本のどの地域のしょうゆが輸出されたのかなど、詳しいことについては明らかではありませんでした。
しかし、近年の研究により、その実態が解明されました。今回のパネル企画「江戸時代のしょうゆの海外輸出」では、長崎の「出島」に置かれた「オランダ東インド会社長崎商館」が綴った『長崎商館仕訳帳』などの資料をもとに、当時の貿易、とくにしょうゆの輸出について考察してみました。
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川原慶賀筆「長崎出島図」(長崎大学附属図書館経済学部分館蔵) |
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