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過去の展示

江戸時代のしょうゆ輸出について


「本方荷物」と「脇荷物」
出島から輸出される品物には、「本方荷物」と「脇荷物」の2種類がありました。「本方荷物」というのは、「オランダ東インド会社」自身がおこなう取り引きの荷物のことで「こんぱにや荷物」とも呼ばれ、いわば公式な貿易荷物のことです。『長崎商館仕訳帳』に記録されているのは、この「本方荷物」です。
これに対して「脇荷物」は、「役者、漕者荷物」ともいい商館長を始めとする商館職員、交替要員、オランダ船乗組員などの個人用貿易品を指します。
そして「脇荷物」の取り引きを「脇荷取引」と呼び、1685年(貞享2年)幕府はその総取引高の上限を銀額400貫と定めましたが、1737年(元文2年)からは、上限額を廃止しました。ただし、「脇荷取引」は1685年に始まったわけではなく、長崎貿易の初期からおこなわれていました。
しょうゆの輸出も「本方荷物」と「脇荷物」の2本立でおこなわれていました。そして「本方荷物」による輸出は、記録でみる限り、1647年(正保4年)から1792年(寛政4年)までの145年間続けられますが、「脇荷物」による輸出は、日本が1854年(安政元年)に開国するまで続けられました。

しょうゆ輸出の経路
(図)しょうゆ輸出の経路
山脇悌二郎 『江戸時代、醤油の海外輸出』より作成

「本方荷物」によるしょうゆ輸出は、1647年(正保4年)に始まります。輸出経路は、年代によって若干異なりますが、上図に示した通りです。
1647年(正保4年)から1720年(享保5年)の間は、長崎商館からアジア各地の商館に直接送っていましたが、1721年(享保6年)から1792年(寛政4年)まではバタビア本店のみに送られ、バタビア本店から各地の商館に移送されました。
オランダ本国への輸出は、1737年(元文2年)から1760年(宝暦10年)まで24年間続きますが、長崎→バタビア→オランダという経路で、しょうゆが送られました。


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